先日、古賀道場で昇級審査会を実施しました。
毎回のことなのですが、この昇級審査会では、子どもたちに驚かされることが少なくありません。
普段の稽古では、何度注意してもなかなかできない。何度繰り返しても上手くいかない。そんな子どもが、いざ審査会の本番になると、見違えるような技を披露することがあるのです。
「あれ?こんなに上手にできたっけ?」
思わず、そんなことを考えてしまいます。
しかし、よくよく考えてみると、これは実に不思議なことです。
私たち大人は、練習では上手くできていたことが、いざ本番になると緊張してできなくなる。そんな経験をすることが少なくありません。
ところが、子どもたちはその逆の姿を見せてくれることがあるのです。
いったい、これはどういうことなのでしょうか。
今回は、この不思議な現象から、私たち大人が普段見ている「子どもの姿」について、少し深く考えてみたいと思います。
普段の姿が、その子の本当の姿なのだろうか
昇級審査会で素晴らしい技を披露した子どもを見て、私は時々こんなことを考えます。
「だったら、普段の稽古でもそれくらいやってくれよ!」
師範としては、正直な気持ちです(笑)。
普段からそれだけの技量を発揮してくれれば、もっともっと上達するだろうに、と思ってしまうのです。
では、普段の稽古では手を抜いているのでしょうか。
もちろん、そういう面もあるのかもしれません。
しかし、私はそれだけではないような気がしています。
そもそも、審査会で発揮できた技量は、その子が持っていなかった能力ではありません。
本番になったからといって、突然、技術が身につくわけではないのです。
つまり、その子には、もともとそれだけの力が備わっていたということになります。
ただ、普段の稽古では、その力を十分に発揮できていなかった。
そう考えると、私たち指導者が普段見ている子どもの姿は、必ずしもその子の持っている力のすべてではないということになります。
ここに、子どもを育てるうえで、とても大切なことが隠されているように思うのです。

子どもたちは、いつ本気になるのだろう
少し空手から離れて、子どもたちの「遊び」について考えてみましょう。
子どもたちは、遊んでいるとき、実に生き生きとしています。
例えば、鬼ごっこ。
捕まらないように必死に逃げる。相手の動きを読み、瞬時に方向を変え、全力で走る。
そこには、誰かに「もっと真剣に走りなさい!」などと言われる必要はありません。
釣りに夢中になっている子どもなら、魚が釣れるまで何時間でも粘ることがあります。
何かを作ることに夢中になっている子どもなら、驚くほどの集中力を発揮することもあります。
大人から見れば、ただの遊びです。
しかし、子どもたちにとっては、決して遊び半分ではないのです。
子どもたちは、遊びを遊び半分ではやらない。
私は、ここに子どもの成長を考えるうえで、大きなヒントがあるように思います。
遊びには、自分がやりたいという気持ちがあります。
上手くなりたい。勝ちたい。成功させたい。もっとやってみたい。
そこには、誰かに命令されたわけでも、強制されたわけでもない、自分自身の意思があります。
だからこそ、子どもたちは夢中になれるのでしょう。
そして、夢中になっているときの子どもたちは、時として大人の想像を超える力を発揮するのです。
私は、遊びが子どもたちを育てる大きな理由の一つは、ここにあると思っています。
「やらされること」と「自分がやりたいこと」
では、なぜ普段の稽古では、審査会ほどの力を発揮できないことがあるのでしょうか。
私は、その違いの一つに、子ども自身の「目的」があるのではないかと考えています。
普段の稽古では、指導者が課題を与えます。
「もう一回!」
「もっと腰を落として!」
「しっかり引手を取って!」
子どもたちは、それに応えようと稽古をしています。
もちろん、これも大切なことです。
しかし、そこには少なからず「やらされている」という感覚が生まれることもあるのでしょう。
ところが、昇級審査会では事情が違います。
子どもたちは、自分が次の級に進みたいと思っています。
新しい帯を締めたい。
もっと上の級になりたい。
自分の力で合格を勝ち取りたい。
そこには、自分自身が望む姿があります。
つまり、審査会は、ただ技を披露する場ではなく、「自分がなりたいものに成るための挑戦の場」なのです。
だからこそ、普段の稽古では見せなかったような集中力や技量を発揮することがあるのではないでしょうか。
もちろん、すべての子どもが本番で力を発揮できるわけではありません。緊張して、普段の力を出せなくなる子どももいます。
それでも、私は審査会のたびに、子どもたちが持っている力の大きさを感じさせられるのです。

私たち大人は、子どもの本当の姿を見ているのだろうか
ここで、少し視点を変えてみたいと思います。
ご家庭でのお子さんの姿は、いかがでしょうか。
学校から帰ってきても、なかなか宿題を始めない。
何度言っても片付けをしない。
言われるまで動かない。
ついついダラダラしてしまう。
そんな姿を見て、
「もう少し、しっかりしてくれたらいいのに……」
「やればできると思うんだけどなぁ……」
そんなふうに感じることはありませんか。
しかし、少し考えてみてください。
家庭という場所は、子どもたちにとって、最も安心して過ごせる場所の一つです。
いつも緊張している必要もなければ、常に全力を発揮する必要もありません。
気を緩めたり、甘えたり、何もしない時間があったり。
そんな姿があっても不思議ではありません。
では、その姿が、その子のすべてなのでしょうか。
私は、そうではないと思うのです。
もしかすると、保護者の皆さんが普段目にしているお子さんの姿は、その子が持っている力のほんの一部分なのかもしれません。
そして、まだ見たことのない、驚くほど真剣で、たくましく、頼もしい姿が、別の場所にあるのかもしれないのです。
大人が見ているのは、子どもの一部分なのかもしれない
私たち大人が子どもの姿を見る機会は、意外と限られています。
家庭での生活。
学校の授業参観。
発表会や運動会。
もちろん、こうした機会にも、子どもたちの成長を感じる場面はたくさんあります。
ただ、その多くは、大人が用意した課題や決められた活動の中で、子どもたちが頑張っている姿でもあります。
一方で、子ども自身が「どうしてもやりたい」「絶対に成功させたい」と思って取り組んでいる姿を、私たちはどれほど見ているのでしょうか。
例えば、スポーツの大会。
自分が勝ちたいと願い、これまでの練習の成果を発揮しようとする子どもたちの姿には、普段とは違う表情があります。
真剣な眼差し。
張り詰めた緊張感。
最後まで諦めようとしない姿勢。
そんな姿を目にすると、私たち大人の方が驚かされることがあります。
「この子に、こんな一面があったのか!」
そう感じる瞬間です。
しかし、それは突然現れた別人ではありません。
それもまた、紛れもなく、その子自身の姿なのです。
私は、子どもにはいくつもの姿があって当然だと思っています。
甘えている姿も、怠けているように見える姿も、夢中になっている姿も、必死に挑戦している姿も。
どれも、その子の本当の姿なのでしょう。
ただ、私たち大人が見慣れている姿だけが、その子のすべてではない。
このことを、忘れてはいけないと思うのです。

子どもの可能性を、大人が決めつけてはいけない
私は、長年子どもたちに空手を指導してきました。
その中で、何度となく子どもたちの成長に驚かされてきました。
昨日までできなかったことが、今日突然できるようになる。
何度注意しても直らなかったことが、ある日、何も言わなくてもできるようになる。
そして、今回の昇級審査会のように、普段の稽古では想像できなかったような力を発揮する。
そんな子どもたちの姿を見ていると、私は思うのです。
私たち指導者は、子どもの能力をどこまで正しく見極めることができているのだろうか、と。
普段できないから、この子にはまだ無理だろう。
いつも集中できないから、この子は集中力がないのだろう。
何度言ってもできないから、この子は苦手なのだろう。
そんなふうに、目の前の姿だけで判断してしまってはいないでしょうか。
もちろん、指導者には、現在の技量を正しく評価する責任があります。
できていないことを、できていると評価するわけにはいきません。
しかし、「今できていない」という評価と、「この子にはできない」という判断は、まったく別のものです。
私は、この違いを大切にしたいと思っています。
今、目の前で見せている姿は、その子の現在の一つの姿であって、能力の限界を示しているわけではありません。
その子が本気になれる目的に出会ったとき、思いもよらない力を発揮するかもしれない。
そうした可能性を信じて関わることも、私たち教育者の大切な役割なのではないでしょうか。
本気を出させるのではなく、本気になれるものを見つける
子どもたちに、もっと本気で取り組んでほしい。
もっと集中してほしい。
もっと努力してほしい。
これは、保護者も指導者も、共通して願うことだと思います。
しかし、私は最近、少し考え方を変える必要があるのではないかと感じています。
それは、「どうすれば子どもに本気を出させられるか」ではなく、「どうすれば子どもが自分から本気になれるか」ということです。
本気になりなさい、と言われたから本気になる。
そんなに簡単なものではないのでしょう。
自分がやりたいと思うこと。
自分が成し遂げたいと思うこと。
自分がなりたいと思う姿。
そうしたものに出会ったとき、子どもたちは自ら動き始めます。
そして、そのときに発揮する力は、時として私たち大人の想像を超えていきます。
だからこそ、私たち大人がすべきことは、ただ頑張らせることだけではないのだと思います。
子どもたちが夢中になれる機会をつくること。
自分自身で目標を持てるようにすること。
挑戦することの喜びを知ってもらうこと。
そして、子ども自身が「やってみたい」と思ったとき、その一歩を後押ししてあげること。
それが、子どもの可能性を引き出すために、私たち大人ができることなのかもしれません。
最後に 〜まだ見ぬ我が子の姿を楽しみに〜
今回の昇級審査会でも、私は子どもたちから大切なことを教えてもらいました。
普段の稽古では見せなかったような技を、堂々と披露する子どもたち。
その姿を見ながら、私は嬉しさと同時に、指導者としての自分自身を振り返っていました。
もしかすると、私は普段の稽古で、この子たちの力を十分に引き出せていないのかもしれない。
子どもたちの可能性を、私自身が小さく見積もってしまっているのかもしれない。
そんな反省もありました。
そして、改めて思うのです。
子どもたちは、私たち大人が思っている以上に、大きな力を持っているのではないかと。
保護者の皆さんも、日々のお子さんの姿を見て、心配になったり、物足りなさを感じたりすることがあると思います。
でも、どうか、その姿だけでお子さんの可能性を判断しないでいただきたいのです。
今はまだ見せていないだけかもしれません。
まだ、本気になれる何かに出会っていないだけかもしれません。
そして、ある日突然、私たち大人が驚くような姿を見せてくれるかもしれません。
もちろん、何もしなくても自然に力が育つということではありません。
日々の積み重ねも、失敗も、努力も、すべてが大切です。
ただ、その積み重ねが、いつ、どのような形で表れるのかは、私たち大人にも分からないのです。
だからこそ、子どもの成長は面白い。
だからこそ、子どもを育てることは、難しくもあり、楽しくもあるのだと思います。
今、目の前にいる子どもの姿が、その子のすべてではない。
そして、
まだ見たことのない姿もまた、その子の中に眠っているのかもしれない。
私たち大人は、その可能性を信じ、焦らず、楽しみに待つことも必要なのでしょう。
子どもたちが、いつか自分自身の力で、私たちの想像を超えていく日を楽しみに。
これからも、そんな子どもたちと向き合っていきたいと思います。
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