プロローブ 見えていた僕が、見えなくなるまで
2014年4月。
前の奥さんとの結婚式を目前にした僕は、絶望していた。
「緑内障ですね。このままだと最悪失明する可能性があります。」
ただ、結婚式では眼鏡よりコンタクトをつけて裸眼のほうがかっこいいでしょ!と、軽い気持ちで眼科に行ったのに。
コンタクトを作れる以前の唐突な「あなたは失明する可能性がある」という地獄のような宣告。
その日、家に帰って前の奥さんに、
「ポンコツでごめん。」と泣きながら謝ったことを今でも覚えている。
第1章 見えているふりをして生きた会社員時代
そこからの僕の「見えなくなる自分」との向き合いは始まった。
……なんてドラマチックに描いてはいるが、別に失明の可能性があるからって、日々びくびく過ごしていたわけでもなく。
生来の楽観思考で「まぁ言っても今は見えてるし、問題ないっしょ!」と思って過ごしていた。
点眼して、眼圧を低く抑えていたら、急に見えなくなるようなものでもないと言うし。
「今は何の支障もないんだから、大丈夫。」
そう自分に言い聞かせて、何気なく過ごしていた。
当時はまだ会社員。
ただ、今思えばだけども、「もしかしたら見えなくなるかもしれない」という根源にある恐れは、「会社員のままで生きていけるだろうか?」という潜在的な懸念を生んでいたのかもしれない。
結果的に2016年の7月に、僕は会社をやめることになる。今からちょうど10年前だ。
別に前職の会社はとてもよく考えてくれていた。
見えにくくなっていく自分に対して、どんな働き方ならこの会社で働き続けることができるか?を、上司も役員も考えてくれてはいた。
しかし、自分の中でそれが「同情されている」みたいな感じもあり、ありがたいが、気持ちの良いものでもなかった。
それに、もともと「父親を超えるんだ!」と意気込んで福岡から出てきた東京。
当時社会人7年目。悪くもないが、決して良くもない。
パッとしない会社員。とても社会的成功や圧倒的出世とは程遠い。
というか、会社員で自分が目の出るイメージが全く沸かない。
もうすぐ30歳も近い。何か一発逆転しかけるしかない。
そう思って、「独立して起業しよう!」と勢いだけで会社員をやめた。
第2章 独立という名の迷走
今の自分に過去の自分が「独立したらどうなると思います?」と聴いてきたら、
「してもいいけど、ちゃんと爆死するよ(笑)」と笑顔で伝えたい。
恐れと焦りを根底に持った行いは、一時的にうまく行こうとも、結局ゴロゴロと転落の道に一直線だった。
見栄のためだけにお金を使っていたなぁと今では思う。
堅実に、地に足をつけて……とは程遠い生活をしていた。
「もっと人に会えば!もっと学べば!稼ぐためにはお金を使うのが大事だ!」
聞きかじった成功哲学を言い聞かせては、借金がかさんでいった。
ちょうどその頃から、眼科に通うのが億劫になっていた。
そんなヒマはない。そんなお金はない。今は成功することが一番大事。
そんなことを思いながら、イベント企画の会社を立ち上げてみたり、ダイエットコーチをしてみたり、オーダースーツ屋になってみたり、飲食店のマスターをやってみたり。
もう、自分でも何がなんだか。
会社員をやめるときに、「もう二度と会社員もバイトもしない。」と誓ったのだが、
そのせいで「朝5時から23時まで働いて月7万円」という業務委託契約になるという(歩合で稼ぐと意気込んでいた)、「どう考えてもバイトのほうがいいだろ」な環境を自ら選んでいったり。
控えめに言って悲惨である。
それでいて「これもネタ!これも全部乗り越えていくぜ!」とは死に物狂いで息巻いているんだから、当時見ていた人は「痛々しいな」と思わなかったんだろうか。
少なくとも、今の自分から見て、痛々しくも何とも可愛げのある様相だったと感じる(笑)。
第3章 見えなくなれば許される
多分そのあたりから、心の中に、
「もういっそ、見えない人になってできない自分を許してもらおう。」
という魂胆が芽生えてきたところだなと思う。
会社員をやめて2年ほど経って、病院もたまには行くが、結局点眼をもらってもしない。
視野はどんどん狭くなる。
2018年10月時点では、かろうじて車の運転をしていたが、正直夜中はめっちゃ怖かった。
トンネルの暗転からの明転が恐ろしかった。
その後2019年からは、車の運転はしなくなった。
そもそもこの状況で、子どもができて、2019年4月に生まれて、2019年7月には離婚することになる。
一応発信を見直してみると、なんか楽しそう風に生きてはいるように振る舞ってはいるが、内心は死んでいたんだろうと思う。
離婚の決定打は、今も忘れない。
2019年6月22日の僕の誕生日祝いということで、前の奥さんと生後2ヶ月の娘と、群馬のイオンモール高崎でしゃぶしゃぶを食べに行った。
僕がイメージしていた、紛れもない幸せそうな家族像だ。
両親から与えてもらってきた幸せな時間の再現……のはずだった。
その時、正直何も感じなかった。ただただ、タスクみたいな時間だった。
前の奥さんと「幸せになろう。」と言って結婚したのになんという体たらく。
もうどうやら、自分は人間として終わったらしい。
「幸せにならない結婚なら、終わらせてしまおう。」
と、覚悟を決めた。
そして、その1ヶ月後に正式に離婚した。
養育費の取り決めのときに「月3万円は払ってほしい」と言われたが、当時の僕は生きていくのがやっとで、電気も止まるぐらいの生活だったから。
「1ヶ月1万円までしかお約束できません。今後もずっとです。」
と完全に突っぱねた。
義理のお父さんは義理堅く怒るとこわい人だったが、僕が頑なに「一生これ以上稼ぐようなやつにはなりません。」と言い続けるものだから、最初は「仕様もない男やな!」と怒ってた義理のお父さんが、「そんなずっとうまくいかないなんてことはないだろうが。」と、ちょっと呆れ笑いしながらフォローされる始末だった。
でも、当時の自分にはそれぐらいできない約束をしたくないと思うぐらい、「自分はもうだめなやつなんだ」という思いが強かったんだろう。
それが2019年7月5日。
第4章 離婚と福岡への帰郷
そこから浅草で小野さんのシェアハウスで1ヶ月ほどお世話になり、両親にも助けてもらった地元の福岡に帰ってきた。
それが2019年8月。
いくら自分が無能だ、だめなやつだと思っていても、稼がないことには生きていけない。
一応うまくいった経験があるYouTubeを使って、動画編集をしたり、コンサルをしたりでなんとか食いつないでいた。
まだこの頃は動画編集できるぐらいは目が見えていたなと思う。
とはいえ、少しずつ遠近感がぶれたりしていたが。
正直、動画編集の納品がきつすぎて「もうこのまま見えなくなって許されたい。」って思ったことがあった。
とにかく、僕はだめな自分を許してほしくて仕方がなかった。
そのための免罪符となるなら、なんでもいいから手に入れたいと思っていたんだと思う。
その結果として、ある意味望み通り視野はどんどん欠損していった。
簡単なことだ。別に点眼をしないで放っておくだけだから。
緑内障はストレス環境も視野欠損を加速させる可能性があるから、僕の生活はまぁお誂え向きだったろうなと思う。
第5章 じゅんちゃんとの出会い
それから2019年10月に福岡でじゅんちゃんに出会い。
2020年2月にじゅんちゃんがYouTubeのクライアントになり。
2020年3月にじゅんちゃんが振られたのをチャンス!と思ってアタックし。
2020年4月に付き合い始め。
2020年5月には婚約して佐賀県に来た。
じゅんちゃんと付き合ってからのプロセスで、かなり「許してほしい自分」が癒されたかのように思えた。
なのだが、それからの6年間。僕はじゅんちゃんと向き合う中でひたすら、
「こんな自分でも愛してほしい。」
を何度も爆発させていくことになる。
じゅんちゃんからの勧めで眼科に通うも、その頃にはかなり視野欠損は進行していた。
多分2020年当初でも、3級はとれていたんじゃなかろうかってレベル。
ただ、まだ障害者に自分がなろうなんて思ってすらいなかった。もしかしたらなるのかもしれない、ぐらいは思っていたが。
第6章 障害者になるという現実
そして、2021年10月ころだっただろうか。
山口県俵山の友人大ちゃんと温泉に入りながら何気なく言われた一言。
「りょうちゃん、障害者手帳の取得とか検討しないの?使えるもんは使っていいと思うよ。」
これは、正直驚いた。
そんな選択、イメージもしていなかった。
だが、使えるものは使ってみていいか。と思い、じゅんちゃんと手続きを始めた。
その結果、僕は2022年3月には視覚障害で身体障害2級となった。
その結果、障害年金も障害の認定日が会社員期間にかかっていたので、厚生年金と国民年金で支給されることとなった。
なので、2022年6月から支給され始めた障害年金はこの4年間の僕の精神的な安定感の土台となってくれたなと思う。本当にありがたいなと思う。
社会的な免罪符を得た。
ある意味、望みは叶った。
誰が見ても否定しようがない「困りごと」をもった、助けてもらっていい人になれたのだ。
しかし、こっからは自分の内側との向き合いのスタートだったなと思う。
まず、白杖を持とうとすることの抵抗感だ。
2022年3月に手帳を取得したが、白杖使い始めたのは、実は2023年の3月ぐらいからだ。1年ラグがあった。
まず、当時は一応なくても歩けた。それが一番だが、もう一つは、
「白杖をもつことで、ついに自分は視覚障害者に成り下がるんだな。」
という意識があったから。
これは当事者の僕だから自由に言わせてもらうが、中途で健常者から障害者になるというのは「落ちぶれる」という感覚が強くあった。
自分で「許されたい」と心の奥では思っていたくせに、この落ちぶれた感覚への拒否感はこの先何年か僕自身を苦しめる。
とはいえ、手帳取得は自分が「視覚障害者」という認識に至らせてはくれなかった。
心のなかでは「まぁ認定してもらえたから、受けられる物は受けておこう。」ぐらいの、なにか「まだ健常者に近いですから」という斜に構えた感じがあった。
しかし、それが打ち砕かれたのが2022年10月24日。
それまでなんとか騙しだまし使ってきたパソコンの画面。
まだ読めていたパソコンの画面が、その日決定的になった。
「あ。もう見えなくなるんだ。」
と現状を認めてしまったのだ。
あぁ。そうか。僕のセカイからこれから文字や景色はなくなっていくのか。
そのことを完全に体感したときに、じゅんちゃんとわんわん泣いた。
そこから、「とはいえ、なんとかなるだろう。」と高をくくっていた自分の甘さは打ち砕かれて、「ここからどう生きていこう。」と思い始めた。
このままでは、社会から孤立していくことになる。
誰からも必要とされなくなっていく。
第7章 こんな自分でも愛してほしい
なんとかして、社会参画を。僕の能力を社会に発揮できるようにしないと!!と、アイデンティティの危機にとった苦肉の策が、「夫婦+1生活」だった。
2023年1月から、我が家には渚という女性が2024年11月まで住んでいた。
渚には、「僕が見えなくなっても能力を発揮できるようにビジネスの相棒として助けてほしい!」という望みと、「じゅんちゃんに僕の仕事の負担をかけないように助けてほしい!」という望みが根底にはあった。
渚は、細川家に何回か遊びに来ていて、そのたびに毎回大笑いして話し込んでいるぐらいの間柄だった。
そんな渚が、2022年末から2023年の年明けのときに我が家に泊まりに来たときに、「この3人で生活してみようぜ!」と言って、始まったのだった。
ノリは軽やかのように見えたが、やはり根底には僕の「なんとか僕を死なさないでほしい。社会的に死なないようにしてくれ。」という恐れが、二人の女性の「この男を死なせたくない。」という優しさに甘えて成り立っていたんだろうなと思う。
ともに生活するというのは、楽しいこともあったがやはりうまく行かないこともたくさんあった。
そもそも、夫婦+女性1というのは、ハタから見たら一夫多妻か?なんていう人もいたぐらいだから、歪だったろうし、今から思えば確かにいびつな部分もあったなと思う。
3人それぞれが、何かしらの痛みを感じ、望んで始まりはしたけど、望んでない終わり方をした。という感じだった。
これも結局僕の「こんな自分でも愛してほしい。」の表れのひとつなんだったろうなと、今では思う。
この3人生活の中で、僕はイベントやったり、ともに本を作るために奔走して。
まぁ色々やったなと思う。
ただ、やればやるほど全部きつくなったのが今思う本音だ。
その後2024年11月に渚が我が家を出てから、僕は自分の働き方について考え直した。
基本的にはオンラインが中心で、事務作業は最小限で。
幸いAIが台頭してきていて、だいぶ便利になってきていた時期ではあった。
それから2025年、佐賀県創生推進課の「ローカリスト」に選ばれてしまったり。
そこから、2025年は自分の中ではよりハードな向き合いとなった。
「障害を持つ自分とはなにか。」
そんなことを、とことん向き合ったのが2025年だった気がする。
2025年6月26日に「どうせ無理からはじめよう」当事者が語る障害受容のイベント。
この前がまぁきつくて。
なんで自分はこんなこともできなくなってしまったんだ。とスマホをぶん投げてカーペットで泣き崩れたりした。
とにかく、許されたくてなったはずが、結局その自分を自分が許せないという。
それは2025年、徹底して起きてきた。
9月にも自分が許せなすぎて、クッションを殴ったつもりが外して床を殴って、多分小指の付け根にヒビが入っていた(病院にいってないからわからない)とか。
とにかく、自分の激情と向き合いまくって、昇華して。そんなことの繰り返し。
それでもずっとじゅんちゃんがそばにいてくれたから向き合えたなと思う。
あ、と言っても全然きれいな感じではなくて、そのプロセスでも「やっぱ女性と関係持ちたい」とか言って、じゅんちゃんから「すかーーん!」って蹴られたり。
2024年からかなりそういうのはやり続けていた。
どこまでいっても、「許されたい自分」と「許せない自分」が自分を引き裂こうとしてきて、ずっときつかった。
第8章 「愛されたい」を手放す
そんな中、2025年12月16日。
僕の中で決定的な出会いが起こった。
とある、僕が「この人の生き方はかっこいい」と思う人との命のタイマンをしてきた。
それはもう、見事な完敗だった。
かっこつけていた自分を見事に看破され、
「俺は見えないぐらいでやめるような生き方をしていない」と覚悟の違いを見せつけられ。
「りょうさんはもっと今ここに本気になれると思います。」
と言われて、それまでの自分のあり方を完全に見直すと、決めた。
その結果、コミュニティは抜け、仕事は早め、予定もなくなっていった。
年末にはこれまでの自分では考えられないぐらいの余白ができていた。
そして、かっこいい男からの魂の言葉。
「人は愛されないから苦しいのではない。愛さないから苦しいのだ。」
という言葉から。
だったら、「愛されたい」の自分をとことん滅却しよう。と思って2026年1月に自分ルールを定めた。
1.役に立とうとしない。
2.寂しさから動かない。
3.自分から連絡しない。行かない。
4.小遣い0円。
こうすれば、自分が「愛されたい」からの行動をできなくなる。
自然と「愛する」からの行動を選択するしかなくなる。
とはいえ、予定も仕事もない。ただ時間はある。人とも話したい。どうする?と思って、ルールに抵触しないのは、
「不特定多数に発信をする。」しかないので、SNSでの発信ともっとリアルな場所での「駅前での立札座り」というのを2026年1月から始めたのだ。
その結果、面白いことがいっぱい起きた。
会うはずもなかろう人たちと出会うこともできた。
思っていたよりも自分が文章を書くことが好きなことも、いや止むに止まれないこともわかった。
そして、やはり人との響き合いを心から求めていることもわかった。
何より、人とのかかわりのなかで、とことん「自分を見せてもらっているんだ」と気づくことができた。
そして先日 2026年7月8日、ついに最後の最後の砦が崩れ落ちたのだ。
第9章 僕は最初から許されていた
「そうか。僕はじゅんちゃんが無邪気になれないのは、自分の無力さからだ」と勘違いしていたことを。
そして、もっと言うと、
「無力さ=自分が力になれないことを許せなかった」ということに。
ただ、何かその許せないという感覚すら溶けていった。ここ最近の床掃除にはじまる「今ここ」への体感による回帰で、「それでもあなたは生きているじゃないか。」と自分への感謝につながっていたんだろうか。
これまでの出会いや言葉によって、許せるようになったんだろうか。要因はわかりようがないが、わかることは、
「僕は元からゆるされてしかいなかった。」と魂でつながったことだ。
そして、わかった。
僕は、この地球に「見えなくなること」を望んできたんだと。
いや、むしろこれが俺の最強装備だぜ!と思ってきたことを。
見えてるセカイと見えないセカイを横断することで、より相手の「命のそのまま」に触れに行くことができるんだと。
そこに気づけたとき、僕は、
「見えなくなる自分」をやっとそのまま愛していいんだ、と感じることができた。
2014年から12年。長いのか、短いのかはわからないが。
「見えなくなる自分」を愛するまでの道のりは、とても今思えば味わい深かったなぁと思う。
この愛しき自分から始まるセカイは、きっとこれまた味わい深くなること請け合いだろうなと思う。
エピローグ
今朝、そうじをしていたらどうしてもこの文章を書いたほうがいいと直感したので書いてみた。一筆書きだ。よく書いたなと思うし、そこのあなたもよく読んだと思う(笑)。
もちろん、この文章にオチはない。なぜなら、これから始まるストーリーのただの序章だからだ。
いつだって、ここからである。いつだって、生まれ直しである。
見えないセカイの人細川亮。
このセカイで遊び倒してやるぜ!!
さぁ、一緒に面白いことしようぜ?

細川 亮のといといといの森
ココニア掲載店


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